Embassy of Japan in Nepal
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明治のネパール人留学生
留学生の日記

  学生たちは、首相のところに定期的に報告書を送るように言われていた。そのため、彼らは学校で学んだことだけでなく、毎月の勘定書や銀行取り引きまで記録していた。その記録の一部を以下に記した。

「大学の規則にしたがって、富士貿易合資会社がわれわれの保証人になった。この数か月間日本語を学んだおかげで、簡単な会話はできるようになったが、教授の講義を理解するまでには達していない。物理や化学、数学といった学科の授業の標準はかなり高い。教授は毎日午前8時から午後4時まで、学生たちに日本語で講義ノートを書き取らせる。このノートの内容は広範囲に渡っており、この他に書物を見る必要がほとんどないほど完璧なものである」

「兵器工学科の教授は英語ではなくフランス語を話す。上級レベルの授業にはフランス語とドイツ語が使われる。´┐ŻEしたがって、それらの言語の教師あるいは通訳を雇うことを(ネパールの首相が)許可してくださるなら、われわれは楽になるでしょう。適当な給料で雇える教師を探すつもりでおります」

 日本人のクラスメートが講義ノートを訳すのを手伝ったり、また必要とあらば、それ以上の協力をしてくれたと日記にはある。

  到着直後に全員が一緒に住んでいたとき、月に100円の給料で日本語の教師を雇っていたと、彼らはネパール政府に報告している。この教師は富士貿易合資会社から紹介された人物で、留学生と同居して、日本語だけでなく日本での習慣やマナー、そして日本人社会に関する基本的な知識を教えたと日記に記されてある。

留学生たちが書き残した日記を読むと、彼らはネパールのビルガンジからインドのボンベイ、最終寄港地の横浜に着くまでに使ったお金の詳細までも書き記していた。供給された食料を含めた、あらゆることを記録するよう要請されていたのである。横浜にある富士貿易合資会社が定期的に食料を供給していた。移動には人力車を使った。また、年に600円の報酬を払って、医者に全留学生の下宿先を訪問してもらった。ジャンガ・ナルシン、バラ・ナルシンとヘム・バハドゥルは、兵器および爆薬製造の実地訓練のために大阪に赴き、ビチャル・マンは製絹を学ぶために京都に、またディープ・ナルシンらも他の訓練のために日本各地へ出向いた。

チャンドラ・シャムシェル首相の側近は、留学生とガイドであるスワミ・ギリが送ってきた知らせに心配したことがあった。スワミ・ギリは、日本では十分に勉強できないので、学生たちをアメリカに送るべきだと報告した。一方、学生たちは、自分たちのガイドはその地位にふさわしくない行状にふけっていると、次のように書いた。「彼はアルコール中毒になり、ネパール政府の命を受けて私たちの保護者として来ているのだからと、いい加減なことばかり話してわれわれを困らせています。例をあげると、彼は鶏肉を食べ、日本人が作った食事を口にしました。われわれがやめるようにいうと、彼は"船に乗った日からカーストはなくなったのだ"と答えました。"ネパールに戻ったときにカーストは清められるのだから、君たちも食べていいんだ。何も害はない"などと言うのです。スワミは具合が悪く、治療が必要です。しかし、彼にそういうと、われわれを変に疑って薬を飲もうとしないのです」



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