明治のネパール人留学生 ー日本への旅立ち
令和3年2月17日
長老委員会とよく相談したうえで、チャンドラ・シャムシェル首相は8人の若者に日本へ留学することを許可した。外務省にあたる「ムンシ・カナ」が8人の若者にあてた1902年3月付けの手紙には、以下のことが記されていた。
学生諸君へ
首相が命じられたような、我が国に必要とされる分野を学び、かつ身につけるために、諸君は尊きチャンドラ・シャムシェル・ラナ首相により、中国の近くにある国、日本に行くことを許可された。4月21日にボンベイに赴いてThomas Cook & Sons海運会社と連絡をとり、日本への旅に必要な手続きをしてもらうこと。船は4月29日に日本へ向けて出港する。準備のためにインド通貨で1,000ルピーがすでに送金されている。ネパールから日本へ行く旅費(側近17人の旅費を含む)として6,700ルピーが認可された。このお金をThomas Cook & Sons海運会社で両替えすること。このほかに、日本における1年間の滞在費用の一部として、インド通貨12,840ルピーがビルガンジの国庫から渡されることになっている。これもボンベイに着いてからThomas Cook & Sons海運会社で両替えすること。諸君は日本に到着したら、この金を銀行に預けること。かなりの利子がつくはずである。そして、毎月お金を引き出して、諸君に割り当てられた給料にしたがって配分すること。
首相からの二通目の手紙によると、留学生を送るにあたって、首相はあらゆる関連部署の役人や宗教上の指導者とまで協議していた。彼らは、留学生が日本で習得してきた技術を帰国後に役立てることができれば、政府にとっても国にとっても利益となるだろうと意見した。日本は仏教国でもあり、留学生たちの「カースト」に影響を与えることもないだろうと考えた。そのため、若者を日本に送ることに何の異論もなかったのである。「日本には質の高い技術学校がたくさんある」と、手紙にはある。スワミ・ギリは学生の世話をする全権を与えられた。留学生たちは東京に着いたら英国公使館に報告するよう指示され、英国公使は彼らの面倒を見るように頼まれていた。日本では誰とも争うことのないようにと忠告を受け、何か問題が生じたときには、英国公使のところに行くように言われていた。
学生諸君へ
首相が命じられたような、我が国に必要とされる分野を学び、かつ身につけるために、諸君は尊きチャンドラ・シャムシェル・ラナ首相により、中国の近くにある国、日本に行くことを許可された。4月21日にボンベイに赴いてThomas Cook & Sons海運会社と連絡をとり、日本への旅に必要な手続きをしてもらうこと。船は4月29日に日本へ向けて出港する。準備のためにインド通貨で1,000ルピーがすでに送金されている。ネパールから日本へ行く旅費(側近17人の旅費を含む)として6,700ルピーが認可された。このお金をThomas Cook & Sons海運会社で両替えすること。このほかに、日本における1年間の滞在費用の一部として、インド通貨12,840ルピーがビルガンジの国庫から渡されることになっている。これもボンベイに着いてからThomas Cook & Sons海運会社で両替えすること。諸君は日本に到着したら、この金を銀行に預けること。かなりの利子がつくはずである。そして、毎月お金を引き出して、諸君に割り当てられた給料にしたがって配分すること。
首相からの二通目の手紙によると、留学生を送るにあたって、首相はあらゆる関連部署の役人や宗教上の指導者とまで協議していた。彼らは、留学生が日本で習得してきた技術を帰国後に役立てることができれば、政府にとっても国にとっても利益となるだろうと意見した。日本は仏教国でもあり、留学生たちの「カースト」に影響を与えることもないだろうと考えた。そのため、若者を日本に送ることに何の異論もなかったのである。「日本には質の高い技術学校がたくさんある」と、手紙にはある。スワミ・ギリは学生の世話をする全権を与えられた。留学生たちは東京に着いたら英国公使館に報告するよう指示され、英国公使は彼らの面倒を見るように頼まれていた。日本では誰とも争うことのないようにと忠告を受け、何か問題が生じたときには、英国公使のところに行くように言われていた。