明治のネパール人留学生ージュッダ・シャムシェルの企て
令和3年2月18日
しかし、この後にもネパールの留学生を日本に送る試みは続いた。1937年にカトマンズで最初に開かれた産業博覧会の開会式で、ジュッダ・シャムシェル・ラナ首相はネパール人留学生を日本に送ることを約束した。しかし、第二次世界大戦が勃発したために、この話は延期された。首相は1939年に開かれた第二回産業博覧会でこの約束を繰り返した。ジュッダ・シャムセルはいくつかの産業計画を開始したものの、多くの開発計画は1942年に彼が引退するまでに十分に実を結ばずに終わってしまった。日本から帰った留学生の一人であるバラ・ナルシン・ライマジは、この首相の長老評議会委員になった。
河口慧海師は、チャンドラ・シャムシェル・ラナ首相にあてた1905年10月22日付けの57ページにおよぶ手紙14のなかで、教育の向上について強く奨励した。彼は日本人の教師や指導者から援助を得ようとさえも書いている。進んだ教育や訓練を受けるために、有能なネパール人を日本に送るべきだとも示唆している。長い目でみてネパールのためになるとする、教育計画についても詳しく書き記している。さらに、主な分野における職業訓練校の設立、産業、鉱山の開発、電力生産、銀行の設立、幹線道路の建設、交易、近代的な行政といった、さまざまなことがらについて提案をした。そして、こうした計画を推進するために日本人の協力を得ることもできると記した。
カトマンズの英国駐在公館は、つねにラナ政府の動向に目を見張っていた。彼らは、ネパールが外国からの技術的援助を必要とするなら、インドから得ようとするだろうと考えていた。ところが、ネパールは日本から援助を得ようとアプローチしたため、インドの英国政府はこれを懸念した。英国レジデントはこれをロンドンの当局に報告した15。そこには、こう書かれてある。「残念なことに、ネパールは日本から指導をあおごうとしている。まるで、優秀で頼りになる人材よりも安価な労働力を求めているかのようである。........ネパールの工場から日本の影響を排除するよう求める可能性もある。.......日本がネパールに勢力を伸ばすのは好ましくないことだ。ネパール政府は外国から輸入をするなら、日本かドイツの製品を輸入し、彼らの影響を受けたほうがよいと考えているようだ」
英国の役人によると、「われわれがネパールの天然資源のことを知ったら、それを搾取しようとするにちがいないとネパール政府は恐れているのだろう」と言う。ネパール政府は意味深長に、「英国人はやってくると、そこに住み着く」と言っている。しかし同じ役人はこうも言っている。「他の国の人間も英国人と同様に住み着くものだ、ということをネパール人はわかっていない」
河口慧海師は、チャンドラ・シャムシェル・ラナ首相にあてた1905年10月22日付けの57ページにおよぶ手紙14のなかで、教育の向上について強く奨励した。彼は日本人の教師や指導者から援助を得ようとさえも書いている。進んだ教育や訓練を受けるために、有能なネパール人を日本に送るべきだとも示唆している。長い目でみてネパールのためになるとする、教育計画についても詳しく書き記している。さらに、主な分野における職業訓練校の設立、産業、鉱山の開発、電力生産、銀行の設立、幹線道路の建設、交易、近代的な行政といった、さまざまなことがらについて提案をした。そして、こうした計画を推進するために日本人の協力を得ることもできると記した。
カトマンズの英国駐在公館は、つねにラナ政府の動向に目を見張っていた。彼らは、ネパールが外国からの技術的援助を必要とするなら、インドから得ようとするだろうと考えていた。ところが、ネパールは日本から援助を得ようとアプローチしたため、インドの英国政府はこれを懸念した。英国レジデントはこれをロンドンの当局に報告した15。そこには、こう書かれてある。「残念なことに、ネパールは日本から指導をあおごうとしている。まるで、優秀で頼りになる人材よりも安価な労働力を求めているかのようである。........ネパールの工場から日本の影響を排除するよう求める可能性もある。.......日本がネパールに勢力を伸ばすのは好ましくないことだ。ネパール政府は外国から輸入をするなら、日本かドイツの製品を輸入し、彼らの影響を受けたほうがよいと考えているようだ」
英国の役人によると、「われわれがネパールの天然資源のことを知ったら、それを搾取しようとするにちがいないとネパール政府は恐れているのだろう」と言う。ネパール政府は意味深長に、「英国人はやってくると、そこに住み着く」と言っている。しかし同じ役人はこうも言っている。「他の国の人間も英国人と同様に住み着くものだ、ということをネパール人はわかっていない」