菊田大使書面インタビュー:Look Nepal 誌(2023年3月)
令和5年5月3日
※これは、Look Nepal誌(2023年3月発行)に掲載された菊田大使の書面インタビューの日本語訳です(英語版)。
私はこれまでのキャリアの中で、天皇陛下の侍従としてお仕えする光栄に浴しました。公には報道されませんが、天皇陛下は、一年365日、雨の日も晴れの日も、国の繁栄、国民の安寧、そして世界の平和をお祈りされていることを宮内庁勤務の際に肌で感じました。
日本の皇室は、過去にネパール王室と長く親密な関係を築いてきました。上皇上皇后両陛下は、1960年と1975年の2回、皇太子、皇太子妃としてネパールを訪問されました。1975年のご訪問は、ビレンドラ国王陛下の戴冠式に出席するためのものでした。カトマンズの私の公邸には、その時に両陛下が記念植樹された二本のヒマラヤ杉が大きく育っており、私は毎朝それを見る度に、この魅力的な国に駐在する日本大使としての責任を感じています。
今上天皇も皇太子として1987年にネパールを訪問されました。陛下は登山(この国では「トレッキング」ですが)がお好きなことから、ポカラをご訪問になり、マチャプチャレ山やサランコットで水汲みをする女性たちの写真を撮影されました。これが、陛下が世界の水問題に取り組むきっかけとなったのです。さらに、1997年には秋篠宮殿下が、日本の資金援助により拡張されたネパール国立博物館の仏教館の開設式に臨まれました。このように、日本の皇室はネパールと密接な関係にあります。
ネパールがビクラム暦を使用しているように、日本には独自の伝統があり、天皇の治世ごとに元号の名前が変わります。現在の元号である「令和」は、西暦 2019年、ビクラム暦では 2076年に始まったもので、「美しい調和」を意味します。「令和」の初め、ネパールのビディヤ・デヴィ・バンダリ大統領が来日され、即位礼正殿の儀に出席されました。ネパール新憲法の下で選出された最初の大統領が、新しい日本の天皇の御即位を祝われたのは、両国にとって歴史的な出来事でした。
しかし、両国間の人と人の交流の歴史は、そのほぼ 2 倍の長さがあります。1899年、日本人として初めてネパールを訪れたのは僧侶の河口慧海でした。そのわずか3年後の1902年、今度は8人のネパール人留学生がネパール人として初めて日本に派遣されました。それゆえ、昨年2022年は日本とネパールの留学生交流120周年を祝う年でした。現在、日本に留学しているネパール人留学生は約19,000人で、国別では中国、ベトナムに次ぐ第3位となっています。 私はここネパールで、日本政府の奨学金で日本に留学した後、ネパールに戻ってきた多くの人々に会いました。 彼らは、官公庁、研究機関、教育機関、医療機関、民間企業など様々な分野で活躍し、ネパールの発展を支えています。120年前に蒔かれた「教育」による人的交流の種が、爾来、この国で開花していることを本当に嬉しく思います。
日本とネパールとの間には、皇室・王室、政府、民間といった様々なレベルでの長く重層的な交流の歴史があります。政府開発援助(ODA)を通じたインフラ支援、人材育成、震災復興などとともに、両国の人々の交流にまつわる美しい物語も多くあります。現在の両国の友好関係は、こうした多層的な交流の積み重ねによって育まれてきたと言うことができましょう。
ネパールの発展に必要なのは「技術」ではなく、発展を達成する「精神」だと思います。 ネパールの発展は、ネパール国民と政府自身の意志にかかっています。ネパールが 2026年(たまたま両国の外交関係70周年の年でもありますが)に LDC(後発開発途上国、いわゆる最貧国カテゴリー)の位置付けを卒業することを目指して、民主主義の下、根本的な構造的社会経済変革のために多大な努力を払っていることは称賛に値します。日本は、この点でネパールと協力できることを非常に嬉しく思います。路は遠くても、一歩一歩着実にエベレストの頂上を目指すシェルパのように、ひとつひとつ成功例を積み重ねていくことが大切です。
中でも特に重要視しているのは、日本の特性や経験を活かした人材育成や技術協力です。
例えば、日本はナグドゥンガ・トンネル建設事業を支援しています。この事業はインフラ事業であり、ネパール初の道路交通トンネルであって、ネパールにとっては新たな挑戦です。同時に、日本人と共に現場で働くネパール人にとっては道路トンネル工事の知識と技術を習得する機会でもあり、ネパール建設業界の人材育成につながっています。日本の事業には技術移転の側面もあり、そういった意味でも、私たちの支援はまさにネパールのために行っているのです。
ネパールには、援助国からの支援をどのように活用し、自国の更なる発展に繋げていくのかを慎重に検討していただきたいと思います。同時に、ネパールが真剣にプロジェクトを準備し、実施段階で日本と緊密に協力することを期待しています。なんといっても、ネパールへの経済協力は日本の納税者のお金で賄われているのですから、効果的に使われることが期待されます。
ネパール側次第ではありますが、日本政府は若いネパール政府職員の人材育成を支援しており、また、日本の民間部門でも、日本社会を維持するために不可欠な労働力または「マンパワー」としてネパールの人々に対する関心が高まっていると感じます。こうしたことが、経済関係の発展にも貢献することは間違いありません。
この国の商工関係者の皆様には機会あるごとに申し上げているように、2025年に大阪・関西で開催予定の万国博覧会は絶好のチャンスの一つです。この万博への参加を表明したネパールには、この貴重な機会を存分に活用して、ネパールの持つ高いポテンシャル、資源、魅力を日本そして世界に向けて発信していただきたいと切に願っています。
トリブバン国際空港 (TIA) は、かつてはネパール唯一の国際空港で、ネパールから世界への玄関口でしたが、一定のリスクを有していました。日本が同空港の安全性向上のために経験と技術を共有してきたことは、ネパールの人々にもっと広く知られるべきだと思います。日本は、監視レーダーや安全施設・機材、航空交通管制に関する専門家の指導などを提供してきました。また、地方空港には航空照明や高度な太陽光発電システムを提供しています。ゴータム・ブッダ空港やポカラ空港などの新たに開港された国際空港や多くの国内空港における空の安全性と利便性は、ネパールの観光産業にとって大きな役割を果たすものです。登山には一定の命の危険があることは理解していますが、空の旅には危険があってはならないのです。
ルンビニでは、1970年代に日本人建築家・丹下健三氏の協力を得て、国連のプロジェクトとしてルンビニ遺跡の保存・開発のためのマスタープランが策定されました。現在まで、ルンビニ開発トラスト(LDT) が計画の実現に取り組んでいます。
丹下マスタープランはルンビニが世界遺産として登録される前の状況に基づいていたため、現在は、ユネスコが世界遺産としての遺跡の保護に取り組むための統合マスタープランの開発と実施を支援しています。そして、日本はその一環として2008年から日本信託基金を通じた支援を行っています。現在、プロジェクトは第4段階にあります。
私は、ルンビニ遺跡とその周辺地域が、地域社会の協力を得て適切に保護され、持続的に発展することを願っています。そうすることにより、旧くからの仏教巡礼地であるルンビニは、これからも世界中からの訪問者を受け入れ続けることができると信じています。
日本のNGOが現場でプロジェクトを実施する際には、ネパールのNGOや現地の人々との協力も不可欠です。こうした協力は、日本のNGOとネパールの人々との信頼関係に基づいています。その点において、私はネパールの人々の善意に感謝することが多くあります。一方で、国際NGOがネパールで活動する際には、そのルールや規制により様々な課題に直面していることも否定できません。例えば、プロジェクト資金の管理には様々な制約があり、また、プロジェクトを実施するためのプロジェクト合意を得るまでには通常長い時間を要します。
事業対象地域における日本のNGOの活動は高く評価されています。私は、日本のNGOが引き続きこの分野で力を十分に発揮できるよう、関係諸機関の実施体制や協力体制が強化・改善されることを期待します。私は、ネパールの真の友人としてそう申し上げます。
先ほど申し上げたように、私たちにとって次の節目となる年は2026年です。この年は、日・ネパール国交樹立70周年であり、ネパールが後発開発途上国(LDC)からの卒業を予定している年でもあります。 両国の豊かで多層的な関係が、今後数年間でさらに発展し、強化されることを楽しみにしています。大使として、ここでの滞在を満喫しつつ、日本とネパールの友好関係が「美しい調和」のとれたものであり続けるよう、できる限りのことを行っていく決意です。
1.天皇陛下は日本において政治面及び一般国民の生活面でどのような役割を担っていますか。
日本国憲法は、天皇陛下が日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であると規定しています。天皇は憲法に定められた国事行為のみを行い、政治的役割はありません。私はこれまでのキャリアの中で、天皇陛下の侍従としてお仕えする光栄に浴しました。公には報道されませんが、天皇陛下は、一年365日、雨の日も晴れの日も、国の繁栄、国民の安寧、そして世界の平和をお祈りされていることを宮内庁勤務の際に肌で感じました。
日本の皇室は、過去にネパール王室と長く親密な関係を築いてきました。上皇上皇后両陛下は、1960年と1975年の2回、皇太子、皇太子妃としてネパールを訪問されました。1975年のご訪問は、ビレンドラ国王陛下の戴冠式に出席するためのものでした。カトマンズの私の公邸には、その時に両陛下が記念植樹された二本のヒマラヤ杉が大きく育っており、私は毎朝それを見る度に、この魅力的な国に駐在する日本大使としての責任を感じています。
今上天皇も皇太子として1987年にネパールを訪問されました。陛下は登山(この国では「トレッキング」ですが)がお好きなことから、ポカラをご訪問になり、マチャプチャレ山やサランコットで水汲みをする女性たちの写真を撮影されました。これが、陛下が世界の水問題に取り組むきっかけとなったのです。さらに、1997年には秋篠宮殿下が、日本の資金援助により拡張されたネパール国立博物館の仏教館の開設式に臨まれました。このように、日本の皇室はネパールと密接な関係にあります。
ネパールがビクラム暦を使用しているように、日本には独自の伝統があり、天皇の治世ごとに元号の名前が変わります。現在の元号である「令和」は、西暦 2019年、ビクラム暦では 2076年に始まったもので、「美しい調和」を意味します。「令和」の初め、ネパールのビディヤ・デヴィ・バンダリ大統領が来日され、即位礼正殿の儀に出席されました。ネパール新憲法の下で選出された最初の大統領が、新しい日本の天皇の御即位を祝われたのは、両国にとって歴史的な出来事でした。
2.閣下、関係樹立以来のネパールと日本の関係をどのように評価されますか。
日本とネパールの正式な外交関係は、日本の登山隊が世界で初めてマナスル山に登頂した1956年に樹立されました。しかし、両国間の人と人の交流の歴史は、そのほぼ 2 倍の長さがあります。1899年、日本人として初めてネパールを訪れたのは僧侶の河口慧海でした。そのわずか3年後の1902年、今度は8人のネパール人留学生がネパール人として初めて日本に派遣されました。それゆえ、昨年2022年は日本とネパールの留学生交流120周年を祝う年でした。現在、日本に留学しているネパール人留学生は約19,000人で、国別では中国、ベトナムに次ぐ第3位となっています。 私はここネパールで、日本政府の奨学金で日本に留学した後、ネパールに戻ってきた多くの人々に会いました。 彼らは、官公庁、研究機関、教育機関、医療機関、民間企業など様々な分野で活躍し、ネパールの発展を支えています。120年前に蒔かれた「教育」による人的交流の種が、爾来、この国で開花していることを本当に嬉しく思います。
日本とネパールとの間には、皇室・王室、政府、民間といった様々なレベルでの長く重層的な交流の歴史があります。政府開発援助(ODA)を通じたインフラ支援、人材育成、震災復興などとともに、両国の人々の交流にまつわる美しい物語も多くあります。現在の両国の友好関係は、こうした多層的な交流の積み重ねによって育まれてきたと言うことができましょう。
3.日本が経済的にも技術的にも短期間でこれほど素晴らしい発展を遂げた秘訣は何でしょうか。そのような技術はネパールの開発にも適用可能でしょうか。
日本の戦後復興は、日本人の自助の精神と、世界銀行や占領地域救援資金(GARIOA)、占領地域経済復興資金(EROA)などの国際社会からの支援の賜物であると考えます。こうした経験を通じて、「国造りは人造りから」、「自助努力を支援する(魚を与えるのではなく、魚の捕り方を教える)」という日本の援助理念が形成されました。ネパールの発展に必要なのは「技術」ではなく、発展を達成する「精神」だと思います。 ネパールの発展は、ネパール国民と政府自身の意志にかかっています。ネパールが 2026年(たまたま両国の外交関係70周年の年でもありますが)に LDC(後発開発途上国、いわゆる最貧国カテゴリー)の位置付けを卒業することを目指して、民主主義の下、根本的な構造的社会経済変革のために多大な努力を払っていることは称賛に値します。日本は、この点でネパールと協力できることを非常に嬉しく思います。路は遠くても、一歩一歩着実にエベレストの頂上を目指すシェルパのように、ひとつひとつ成功例を積み重ねていくことが大切です。
4.閣下は、ネパール社会の向上のためにいかなる開発分野への支援を選択されますか。
日本は地政学的な偏見にとらわれず、様々なメニューをもってネパールの発展を支援してきました。 それが日本の支援の強みだと思います。中でも特に重要視しているのは、日本の特性や経験を活かした人材育成や技術協力です。
例えば、日本はナグドゥンガ・トンネル建設事業を支援しています。この事業はインフラ事業であり、ネパール初の道路交通トンネルであって、ネパールにとっては新たな挑戦です。同時に、日本人と共に現場で働くネパール人にとっては道路トンネル工事の知識と技術を習得する機会でもあり、ネパール建設業界の人材育成につながっています。日本の事業には技術移転の側面もあり、そういった意味でも、私たちの支援はまさにネパールのために行っているのです。
ネパールには、援助国からの支援をどのように活用し、自国の更なる発展に繋げていくのかを慎重に検討していただきたいと思います。同時に、ネパールが真剣にプロジェクトを準備し、実施段階で日本と緊密に協力することを期待しています。なんといっても、ネパールへの経済協力は日本の納税者のお金で賄われているのですから、効果的に使われることが期待されます。
5.ネパールと日本は、両国間の貿易とビジネス関係を促進するためにどのような措置を講じるべきですか。産業と貿易の促進についてネパールや日本の商工会議所に対しどのような役割を助言されますか。
貿易と投資の促進を議論する上で重要なのは、ネパールはその魅力で日本企業の関心を引くべきであるということです。日本は市場経済システムを採用しているため、ネパールはビジネスの収益性という点で世界の国々との競争に勝たなければなりません。ネパール内外の多くのエコノミストたちも、ネパールが大きな潜在力を秘めていることについては意見が一致します。驚くべき美しい自然を活かした観光業、巨大な水保留量を誇る発電業、急速に成長する2つの巨大な市場を近隣に有する地理的優位性などです。問題は、それらをいかにして最大限に活用するかです。答えを簡単に言えば、ビジネスに適した環境を作ることです。ネパール側次第ではありますが、日本政府は若いネパール政府職員の人材育成を支援しており、また、日本の民間部門でも、日本社会を維持するために不可欠な労働力または「マンパワー」としてネパールの人々に対する関心が高まっていると感じます。こうしたことが、経済関係の発展にも貢献することは間違いありません。
この国の商工関係者の皆様には機会あるごとに申し上げているように、2025年に大阪・関西で開催予定の万国博覧会は絶好のチャンスの一つです。この万博への参加を表明したネパールには、この貴重な機会を存分に活用して、ネパールの持つ高いポテンシャル、資源、魅力を日本そして世界に向けて発信していただきたいと切に願っています。
6.ネパールの観光産業を促進するための提案はありますか。
登山家など、ネパールを訪れる特定の強い目的を持つ一部の方を除いて、一般の日本人観光客にとって最も重要なことは安全性と利便性です。残念ながら、昨年5月と本年1月には悲しい航空機事故が発生しました。特に1月の事故は、日本国内でも大きな注目を集めました。これらの衝撃的な印象を克服し払拭する唯一の方法は、安全基準を向上させ、日常的に安全な運航を継続することです。トリブバン国際空港 (TIA) は、かつてはネパール唯一の国際空港で、ネパールから世界への玄関口でしたが、一定のリスクを有していました。日本が同空港の安全性向上のために経験と技術を共有してきたことは、ネパールの人々にもっと広く知られるべきだと思います。日本は、監視レーダーや安全施設・機材、航空交通管制に関する専門家の指導などを提供してきました。また、地方空港には航空照明や高度な太陽光発電システムを提供しています。ゴータム・ブッダ空港やポカラ空港などの新たに開港された国際空港や多くの国内空港における空の安全性と利便性は、ネパールの観光産業にとって大きな役割を果たすものです。登山には一定の命の危険があることは理解していますが、空の旅には危険があってはならないのです。
7.日本の人口に占める仏教徒の平均割合はどの程度でしょうか。日本政府はルンビニの開発についてどのような計画を有していますか。
日本人は、神道や仏教など様々な宗教を日常生活に柔軟に取り入れています。日本の街を歩くと、多くの仏教寺院や神社を目にします。宗教年鑑の統計によると、日本の仏教徒は約8,300万人とされています。しかし、統計上の各宗教の信者数を足し合わせると、日本の人口の約1.4倍になってしまいます。つまり、統計上、複数の宗教に属していると数えられる人が多くいるということです。ルンビニでは、1970年代に日本人建築家・丹下健三氏の協力を得て、国連のプロジェクトとしてルンビニ遺跡の保存・開発のためのマスタープランが策定されました。現在まで、ルンビニ開発トラスト(LDT) が計画の実現に取り組んでいます。
丹下マスタープランはルンビニが世界遺産として登録される前の状況に基づいていたため、現在は、ユネスコが世界遺産としての遺跡の保護に取り組むための統合マスタープランの開発と実施を支援しています。そして、日本はその一環として2008年から日本信託基金を通じた支援を行っています。現在、プロジェクトは第4段階にあります。
私は、ルンビニ遺跡とその周辺地域が、地域社会の協力を得て適切に保護され、持続的に発展することを願っています。そうすることにより、旧くからの仏教巡礼地であるルンビニは、これからも世界中からの訪問者を受け入れ続けることができると信じています。
8.ネパールの人々の福祉に貢献するために、多くの日本のNGOがネパールで積極的にプログラムを立ち上げています。両国間の人的交流の促進における彼らの貢献をどのように評価しますか。
日本のNGOは、ネパール全土で地域に根ざした草の根支援を提供することで、多大な貢献をしています。それは簡単には説明できないほどです。防災、健康保健、教育、農業など様々な分野で、それぞれの組織の知識と経験を活かした活動を行っています。そして大使館は彼らに経済的、技術的、さらには精神的な支援を提供しています。日本のNGOが現場でプロジェクトを実施する際には、ネパールのNGOや現地の人々との協力も不可欠です。こうした協力は、日本のNGOとネパールの人々との信頼関係に基づいています。その点において、私はネパールの人々の善意に感謝することが多くあります。一方で、国際NGOがネパールで活動する際には、そのルールや規制により様々な課題に直面していることも否定できません。例えば、プロジェクト資金の管理には様々な制約があり、また、プロジェクトを実施するためのプロジェクト合意を得るまでには通常長い時間を要します。
事業対象地域における日本のNGOの活動は高く評価されています。私は、日本のNGOが引き続きこの分野で力を十分に発揮できるよう、関係諸機関の実施体制や協力体制が強化・改善されることを期待します。私は、ネパールの真の友人としてそう申し上げます。
9.両国間の関係の更なる促進に関して、読者へのメッセージはありますか。
私が大使としてネパールに着任して以来、新型コロナウイルスの影響で直接人に会うことができなかった時期や、日本への渡航が困難な時期が続いた時期、そして今、ようやく徐々に正常な状態に戻りつつある時期を通して、ネパールの人々が常に日本に対して強い親近感と関心を持ってくれていることを感じていました。そのことは私たちにとって大きな励みであり、歓迎すべきことです。日本とネパールの間には、多くの共通点、重層的な関係、そして長い歴史があり、それらが今日の友好関係を育んできたと信じています。先ほど申し上げたように、私たちにとって次の節目となる年は2026年です。この年は、日・ネパール国交樹立70周年であり、ネパールが後発開発途上国(LDC)からの卒業を予定している年でもあります。 両国の豊かで多層的な関係が、今後数年間でさらに発展し、強化されることを楽しみにしています。大使として、ここでの滞在を満喫しつつ、日本とネパールの友好関係が「美しい調和」のとれたものであり続けるよう、できる限りのことを行っていく決意です。