なぜ日本なのか
19世紀後半に日本は大きく変容を遂げた。1853年、米国海軍はペリー総督司令のもとに徳川幕府に圧力をかけて、日本の港にアメリカの船が入ることを許可させた。この結果、日本の鎖国政策は終わりを告げる。そして、1867年11月9日に、ときの将軍徳川慶喜は大政奉還をした。1885年12月に議会制が導入され、1889年2月に憲法が公布されて、翌年11月に帝国議会が設置された。こうして、日本はアジアで最初に議会を擁する国となったのである。このときの憲法は「明治憲法」と呼ばれ、プロシア型の憲法と同様に、天皇に強権力を与えた立憲君主制として知られた。
1889年に始まった産業革命は急テンポで進んでいた。1872年には、東京と横浜を結ぶ鉄道が開通した。日本政府は兵器や弾薬の製造産業を促す戦略をとり、鉱山などの開発にも力を入れた。1880年には製絹工場や製綿工場がつぎつぎと建てられ、製造の試験的なプロジェクトやトレーニングのためのプロジェクトが開始された。朝鮮半島の支配をめぐり、
1894年8月から翌年3月まで続いた日清戦争では、日本が隣りの大国中国をやぶって世界中を驚かせた。台湾が併合され、その後南満州も日本の領土になった。
政治と経済の再構築は容易でなかった。政府は優先すべき分野を注意深く選び、西側諸国に留学生を送ったり、海外から専門家を招いたりもした。こうした思い切った政策がうまくいき、20年のあいだに日本は軍事面でも財政面でも安定したのである。
20世紀のはじめ、日本を含む多くの国は、国家の安全と進歩した技術を社会に持ち込むことを優先した。リチャード・サミュエルスによると、日本は一般的な商業経済と軍事産業を分かつことをしなかった。これを、彼は日本の「テクノナショナリズム16 」と呼んでいる。
19世紀半ばまでに、ヨーロッパの海辺勢力はインド亜大陸の征服を完了し、東南アジアの大半を支配して中国の門戸をたたき始めていた。不平等条約による半植民地制度を確立するために、中国に圧力をかけ始めていたのである。
デブ・シャムシェルは、インドを支配していた英国とは接触がなかったと言われている。彼とその先代の首相たちは、英国政府からネパールの首相として認められていなかった。ラナ家の首相がカルカッタの英国総督に会いにいくときには、ネパール国王の大使としての待遇を受けていた。1899
年から1904年にかけてのインド総督カーゾン卿のネパールに対する見方は、彼の前任者たちと変わりのないものだった。彼はネパールが中国といかなる関係をもつことも好まず、インドに対して完全に服従させようとした。こうした英国側の態度17のため、ネパールは苛立ちを増していた。公式に首相として認知されたのはチャンドラ・シャムシェルの代からである。ラナの支配者は皆、当時の超大国イギリスを恐れていた。1923年に調印された条約により、英国インドはネパールを正式に独立国として承認した。「ディビヤ・ウパデシュ」(神の教え)のなかで、プリスビ・ナラヤン・シャハ国王でさえ、ネパールは南の隣国の意図に注意すべきだと述べている。ネパールの支配者は、第一に自主独立を保つことに気を使ったのである。
ゴルカの支配者(シャハ家)は外国人に対して深い疑惑を抱き、ネパールから外国の影響を取り除くことに努めた。1769年にプリスビ・ナラヤン・シャハがカトマンズ盆地を征服すると、すぐにキリスト教布教団を追放し、外国人商人の活動を禁止した。18
ラナ家のどの首相も、英国人に国内を自由に移動する許可を出したり、外国人商人に交易をさせたりしたら、ネパールは征服されると信じていた。19
先に延べたように、デヴ・シャムシェルは本を読んだり人から話しを聞いたりして、1868年の有名な明治維新以降の日本の近代化について多くを知っていた。日本では、「明治維新20」という言葉は、新しい政府の設立とその近代化政策に対して使われる。1868年の徳川将軍から天皇への権力の移行、およびそのあとに続いた国の近代化は明治天皇の名のもとに行なわれたものだ。明治天皇による治世(1868~1921年)は明治時代として知られている。日本では、今でも年号が天皇の治世の長さをもって表される。たとえば、天皇裕仁の最後の年は昭和64年と呼ばれた。今年(2002年)は天皇明仁が即位して14年目にあたり、平成14年と呼ばれる。
豊かな国家と強力な軍隊を創るという政策にもとづいて、近代化を促進するという政府の考え方は、近代的な(西洋の)思想と生活様式を日本に持ち込むことで正しい方向に進んだ。人々の意識を刺激し、「文明開化」と呼ばれる日本の近代化につながったのである。
ハーバード大学のライシャワー教授によると21、日本では19世紀に革命的というよりも、革新的といえる変化が社会の深遠で始まった。それから、わずか50年のあいだに、日本は技術的に遅れた封建的な社会から抜け出して、強力な近代国家を築き上げ、長いこと待ち望んでいた国家の安全と平等社会を勝ち取るのである。
こうした日本の情況がデヴ・シャムシェルを感化したのである。日本の近代化と、ネパールの近代化に関する彼の考え方に共通するところがあると気づいたのだ。彼はまた、日本に留学生を送るよう勧めたスワミ・プラナンダ・ギリとの会話にも強い印象を受けた。デヴ・シャムシェルは、他にも日本に関するいろいろな事を書物から学んだ。そして、兵器製造、鉱山学、工学、農業といった、ネパールに必要な分野を学ぶために、若者たちを日本に留学させることを決めたのである。
デヴ・シャムシェルがネパールで近代化を推進させたかったことは、彼のリベラルな態度や彼が実行しようとした福祉計画22をみても明らかである。デブ・シャムシェルは立憲君主制や議会制の考え方を信じており、あらゆる面で民主主義者であったといえる。彼は、新しい知識が先進国の礎であると考えた。当時、新しい知識を学ぶには西側先進国に行くことが望ましいと考えられていたが、デヴ・シャムシェルはアジアの先進国を選んだ。その理由は、文化や当時の政治状況に関して、ネパールと日本の両国のあいだに共通するところがあったからにちがいない。ネパールと日本のあいだには3つの顕著な相似点がある。一つは、両国とも封建的君主による支配を受けていることだ。ネパールにおけるラナ家、日本における将軍家は鎖国政策をとって何世紀にもわたってそれぞれの国を支配した。二つ目は、両国とも強大な隣国と戦争をしていることである。そして三つ目は、ネパールも日本もいまだに君主制を敬っていることである。
両国を結ぶ深い歴史的相似点を通して、ネパールの文化的遺産は日本の伝統文化と密接に関係している。詳細については神長善次氏の著作である『豊かなアジアの価値』(タトル商会:東京都港区北青山2-7-20)を参照のこと。神長氏は現在の在ネパール日本大使である。現在、ネパール公使を務める岡部高道氏が日刊紙「The
Rising Nepal」に掲載した「日本におけるネパールの神々」(2001年11月2日)も、ネパールと日本の文化遺産の関係に光を当てた記事である。
インドと中国という二つの大国にはさまれたネパールは、地政学的にも地理的に見ても微妙な位置にある。ネパールはまた、国の3分の2が険しい山で覆われた山国でもある。英国インドが他国の商人がネパールに入ることをいやがったため、ネパールはつねに南の隣国インドの独占市場でありつづけた。ネパール通貨とインド通貨の二種類が通用する通貨システムは1966年までつづいた。ネパールの市場には隣りの大国から物が流入しつづけ、思い切った措置をとらないかぎり、インドによる経済独占から逃れることはできないのである。
1902年に日本に行った8人の留学生は、高等教育を受けるために海外へ旅立った最初のネパール人だった。日本から帰った若者が、祖国の困難な情況のなかで行なったことは推奨に値する。関連当局や彼らを知る人々は、留学生たちの仕事をありがたく思っていた。そのため、彼らが帰国して30年以上もたったあと、もう一人の熱心な首相であるジュッダ・シャムシェルが、1937年に二度目の留学生の一団を日本に送ろうと試みた。しかし、第二次世界大戦の勃発により、その計画は実現しなかった。それよりも以前の1916年に、パドマ・スンダル・マッラが勉学のために日本に渡った。彼は日本への留学をずっと試みており、その機会をうかがっていた。帰国した8人の留学生に興味をもったのである。8人のテクノクラートはネパールの社会に好印象をあたえ、人々は彼らのことを話題にのぼらせた。マッラはカトマンズでたまたま高楠順次郎教授に会う機会を得、1913年には河口慧海師にも会っている。マッラが自分は日本で学びたいと話すと、高楠教授も河口師も、彼が日本に来るのであれば援助をしようと申し出た。マッラはようやくのこと両親を説得し、彼の兄も同行するという条件で日本に行く許可をもらった。2人の兄弟はカルカッタから貨物船に乗って横浜に着いた。高楠教授と河口師は約束にしたがって、彼が東京高等工業学校(今の東京工業大学)に入学するのを手伝った。マッラの兄はネパールに戻り、パドマ・スンダルは浅草に住んだ。日本で2年間勉強したあと、さらなる教育のために彼はアメリカに渡った。パドマ・スンダルはこうして、きちんとした教育を受けたネパールで最初の電気工学エンジニアとなったのである。アメリカでの教育を終えてネパールに帰ってきたが、残念なことに彼はアウトカーストにさせられてしまった。政府から海外渡航許可を得なかったためである。しかし、彼はインドのダージリンの電力会社に就職し、長いあいだそこで暮らした。その後、ネパールのモラン地区(ビラトナガル)にある電力プロジェクトでも働いた。筆者は日本から帰国した直後の1963年に、偶然にもカトマンズにできたネパールで最初のバラジュ工業地区で、マッラと同じ部署で働く機会があった。筆者は仕事を始めたばかりであったが、マッラは仕事を引退する間際だった。私たちは日本を思い出して、よく2人で彼の地のことを話し合ったものである。
日本に留学生を送る計画は、50年以上ものあいだ実現することはなかった。最初は文部省の奨学金により、後には非政府組織のプログラムにより、ネパールから日本に留学生が定期的に送られるようになるのは1957年のことである。
日本に留学するネパール人は、留学が自分自身の勉学のためだけではなく、日本文化がもつ独自性や精神がネパールの発展に、役に立つことをみいだし、それを理解すべきであると考える。また、日本の社会経済活動の背景にある価値観や確固とした自分の決意や意図も理解すべきである。同じアジア人として共通する価値観をもつネパール人にとって、日本人の考え方から多くを学ぶことはそれほど難しいことではないはずである。前述のとおり、ネパールと日本の多くの文化遺産には密接な関連がある。近代化の過程で、文化や伝統は重要な役割を果たすものだ。近代化における日本の経験は、ネパールの留学生が自国の発展に大いに貢献するために学ぶべき、もう一つの分野でもある。