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明治のネパール人留学生


Text Box: 明治のネパール人留学生 89 ネパールへ帰る

1904年、韓国におけるロシアの影響が増大したことに対抗して、日本はロシアに対して宣戦布告をし、この戦争に勝利を収めた。この間、留学生たちはネパールへ戻るよう命ぜられた。ジャンガ・ナルシンは実地の授業が終了するまでの数か月間、滞在を延長してもらえるよう首相にあてて手紙を出して許可された。彼らは1905年9月末にネパールに戻り、さまざまな部署に配置された。手工芸を学んだ側近にまでも仕事が与えられた。当初、多くの留学生がカトマンズにある兵器庫に雇われた。

留学生たちがどんな仕事をしたのか、詳細な記録はない。しかし、手に入った記録と情報によれば、ジャンガ・ナルシン・ラナ、バクタ・バハドゥル・バスニャト、ヘム・バハドゥル・ラジバンダリ、そしてバラ・ナルシン・ライマジは兵器工場に配置された。ジャンガ・ナルシンとバクタ・バハドゥルは、ハウゼル銃とsix rounder銃を設計した。バクタ・バハドゥルは、さらにハウスパー・マウンテン銃と3ポンド銃を作り、縦射ライフルに改良を加えた。ヘム・バハドゥルは機械に関連した作業を受け持った。こうして留学生たちは兵器の改良と近代化に尽したのである。ジャンガ・ナルシンの弟ディープ・ナルシンは、日本から持ち帰った果物や花(藤、菊、柿、栗)をラナ家の屋敷に植えた。彼は東部タライのサプタリ郡(バルマジヤ)で灌漑用運河を造る任務も命ぜられた。チャンドラ・ナハルと呼ばれるこの運河がネパールで最初の灌漑工事となった。その後、ディープ・ナルシンはダンクタの知事に任命されている。バラ・ナルシン・ライマジは西部丘陵地帯のバグルンにある銅山の責任者になり、後にはこの地区の知事にも任命された。首相の命令により、彼はこの銅山から採れた銅から1パイサと5パイサ硬貨を製造している。彼の尽力により、この地域の人々は土地と銅山から徴税されるのを免れたため、ライマジは土地の人から親しまれた。埋蔵量が少ないため、銅を大量に採掘することはできなかった。ライマジは第一次および第二次世界大戦中11、インドにおいて英国同盟軍に従軍した。1922年から26年にかけては、ラサの総領事に任命された。ジュッダ・シャムシェル・ラナ首相のときに、長老評議会の委員となったのが彼の最後の任務となった。ヘム・バハドゥルはさまざまなところで働き、のちに政府造幣局の局長になった。彼は何年ものあいだ、カトマンズの周辺で吊り橋建設に従事した。その吊り橋は今でも残っている。また第二次世界大戦中、英国軍のゴルカ部隊にも従軍している。

デヴ・ナルシン・ラナは病のために早めに帰国し、まもなく亡くなった。ルドゥラ・ラルとビチャル・マンがどこで働いていたかは不明である。

側近の何人かはカトマンズの製革所で雇われ、一人は兵器庫の会計になった。桑が植えられ養蚕が試みられたが、うまくいかなかった。残念ながら、どの試みも組織的に行なわれることがなかったようだ。彼らが政府からどれだけの支援を受けていたのかも不明である。留学生たちは、いろいろな分野で自分が習得した技術を試してみたかったのかもしれない。彼らが成し遂げた業績の記録は、個人的にも公的にも1934年のカトマンズ大地震の際に失われてしまった。

河口慧海が1913年に最後にネパールを訪れたとき、留学生のうち何人かはカトマンズのどこかにあった兵器製造工場で働いていた。

海外で長いこと生活した留学生たちは、日本についての面白い話や日本への行き帰りに立ち寄った土地の話をして、友人たちを驚かせた。海外へ旅をしたことは、経済発展や人類皆平等といった新しい考え方を知るのに役立った。とくに率直な性格のジャンガ・ナルシンは、日本で見てきた天皇の権威や機会均等について何度か主張した。しかし、当時の支配者はこうした考え方を好まず、留学生たちは政府の監視下に置かれた。ある日ジャンガ・ナルシンは、「自分は首相公邸のようなダルバール12さえも吹き飛ばすことのできる小さな爆弾(手榴弾)を作れる」と言って、まわりの者を驚かせた。

この会話が彼に破滅をもたらした。彼の発言が首相の耳に入ったのである。ジャンガ・ナルシンの家族の話によると、ある朝、役人とビジュリ・ガラト(首相の警備を司る軍隊)の一団が家に来て、すぐにカトマンズを去って西ネパールのピュタンに行くよう命じた手紙を渡した。しばらくのあいだ、家族は悲嘆にくれたものの、彼の追放の準備はすでに整っていた。彼はカトマンズの外に連行され、死ぬまで二度と家に戻ることを許されなかった。しかし、首相の手紙には、彼をピュタン郡の行政長官に任命するとも記されていた。ジャンガ・ナルシンはインドのラクノーで中年のうちに死亡した。彼の最後の望みは、日本で農業を学んだ弟のディープ・ナルシンに会うことだったという。ディープ・ナルシンは、東ネパールにあるラジビラジの行政長官として赴任していた。おそらく、兄弟は意図的に別れ別れにさせられたのであろう。家族の話によると、ジャンガ・ナルシンと留学生は、公的な場を除いては、たがいに会うことを恐れていたという。政府の目を恐れていたのである。高楠順次郎教授はネパールを訪れたさいに、表向き尋ねられない元留学生の一人に偶然出会ったが、彼の名前を記していない。当時は外国人と親しくすると疑われたのである。バラ・ナルシン・ライマジはネパール語-日本語の会話集を書いたものの、トラブルを恐れて出版はしなかった。

ジャンガ・ナルシン・ラナに対して思い切った処置が取られた理由の一つは、彼が自由思想について率直な意見を述べたからだろう。政府は、彼と王宮との関係にも眉をひそめていた。それにもかかわらず、ジャンガ・ナルシンはたびたび変装をしては、隠れて王宮を訪ねていたと家族は話している。首相のチャンドラ・シャムシェル・ラナは疑い深い性格だった。首相の地位はつねに陰謀とクーデターの可能性に脅かされていた。ラナの首相は、だれもが自らの地位を安全に保つために全力を尽したのである。

    英国の著名な歴史家パーシバル・ランドンは著書『ネパール13』のなかで、留学生について次のように書いている。

「ネパール政府は、当時置かれていた状況のなかでは妥当と思われる政策をとった。技術的な知識、とくに近代的な工学の知識を身につけさせるために、小人数の貴族の子弟たちを日本に送ったのである。西側諸国の民主化思想に染まった若者が出現するかもしれないという危険は考えもせず、結果的にネパールは近代科学の恩恵を受けるだろうと、政府は考えたのである。こうした、ささやかとも言える伝統からの脱却に対しても批判はあった。日本にとっても新規な分野で、日本人が最適な指導をしてくれると考えていた。結果的には成功したとはいえないが、日本語をまったく知らなかった学生たちが、困難を乗り越えようと果敢に努力したことは誇るに値することといえる。1905年に評議員の議会で、チャンドラ・シャムシェル・ラナ首相はネパールの高官たちに向かって、留学生をヨーロッパ、あるいはアメリカに送るべきだと提案しようとした。しかし、評議会はこの提案に反対して、学生をインドに留学させるか、あるいはインドの専門家をネパールに呼び寄せるかしたほうがよいと主張した。おおむね、この方針が採用されたのである」



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