留学生と日本人
留学生たちはまったく言葉が通じない土地で、誰も知り合いのいない社会に溶け込もうと努力した。日本社会を理解するためには不可欠と考えて、同居しながらフルタイムで日本語を教える教師を雇ったことは、彼らが見知らぬ土地で困難に打ち勝つのに大いに役立った。日本政府は留学生たちに同情を示し、日本の人たちが示した協力や友好の情は彼らの心をなごませた。ディープ・ナルシンの息子によると、彼の父親の教師の一人は、留学生の息子たちに日本で勉強する意志があれば援助をしようと言ったという。1934年、留学生たちが帰国してから30年後に、成田深雪さんという主婦が次のような手紙を書いている。
ディープ・ナルシン様
貴方様と御家族の皆様はお元気ですか。貴方の国で大きな地震があり、たくさんの人が命を亡くし、また家をなくした人も大勢いると日本の新聞で知りました。皆様、ご無事でいらっしゃることと思います。私のことを覚えていらっしゃらないかもしれませんが、私は貴方が1902年から1905年にかけて滞在なさった家の大家、渡辺兵吉の娘です。当時、私は12歳でした。1923年、私は主人の成田秀三とともにヨーロッパに旅行しました。主人は富山県にある富山高校(旧制)の教師です。戻る途中、私たちはコロンボに二泊し、貴方のことを思い出しました。そのときに手紙を書こうと思ったのですが、住所がわかりませんでした。次兄の次郎は日本銀行に勤めており、長兄の水太郎は日本郵船の重役になりました。妹たちも結婚しました。.........
幸運なことに、1978年12月に筆者はこの御婦人と会う機会に恵まれた。当時、84歳でおられたが、東京の渋谷にある彼女の父親の家の二階に住んでいたネパールからの留学生のことを覚えておられた。彼女はディープ・ナルシンとジャンガ・ナルシンや他の留学生のことを話し、驚いたことに、彼らから習ったというネパールの民謡まで口ずさんだ。
20世紀初頭、日本を含むすべての国が西側諸国から近代技術を学び取ろうとしていたときに、ネパールはなぜ日本から学ぼうとしたのだろうか。