明治のネパール人留学生ー河口慧海の協力

令和3年2月18日
 首相直属である外務局の責任者ハリゴパル・バナルジは、ボンベイにいる日本の林総領事に書簡を送り、日本に留学しているネパール人学生の情況について報告してもらうよう要請した。東京の外交史料館所蔵の記録によると、総領事は1903年10月10日付けのこの書簡を、日本の外務省に送っている。一方、チャンドラ・シャムシェル首相は、1903年に日本から来た河口慧海師9に会った。河口との会話のなかで、チャンドラ・シャムシェルは彼が日本に戻ったら、日本にいるネパール人学生の生活と勉学の情況について書き送ってほしいと頼んでいる。このとき河口は、外国人と接触したかどで拘留されているチベット人の友人を釈放してくれるよう依頼する手紙を、チベットのダライ・ラマにあてて書いてもらうためにチャンドラ・シャムシェルに会ったのだった。彼は友人を刑務所から救わねばと責任を感じていた。河口はまず中国政府に助けを求めようとしたが、チベット政府が中国からの外交干渉を嫌うために、それを諦めた。チベット人はネパールに対してより恐れを抱いていたため、ネパール政府に近づけば、うまくいくかもしれないと彼は考えた。留学生を日本に送ったくらいだから、ネパールは日本を大いに信頼しているにちがいないと考えたのである。そして、ネパール政府に接触することに決めた。のちに、このチベット人はネパールの首相チャンドラ・シャムシェルのリクエストにより刑務所から釈放されたのだった。 

  河口慧海師は日本の禅僧で、チベット入国と梵語仏典収集のためにカトマンズを4回(1899、1903、1905、1913年)訪れた10最初のネパール訪問は、チベットへ行く途上でのことだった。彼がネパールを訪れた最初の日本人だった。

 河口の報告によると、8人の留学生と17人の側近は東京で快適に暮らしていた。8人はさまざまな技術を学んでおり、日本人の教師たちは彼らの勉強ぶりに満足して、さらに上のレベルの授業を受けさせようと考えていた。しかし、日本政府は英国公使館が留学生の動きを油断なく見守っていることに対して不審を抱いていた。学生たちは実地訓練のために、大阪にある国営の兵器工場に連れていかれた。酒に溺れていると報告されたガイドのスワミ・ギリは、河口からの報告にしたがってネパールに呼び戻された。