Embassy of Japan in Nepal
English


明治のネパール人留学生
日本到着

    18歳から27歳までのさまざまな年齢の学生たちは、困難な航海ののちに1902年6月17日7、ガイドと17人の側近とともに横浜に到着した。入国管理局の記録によると、鹿児島丸の職員が彼らを出迎えた。8人の学生は海外で学ぶ最初のネパール人となり、彼らと17人の付き添い人は日本を訪れた最初のネパール人となったのである。

    彼らは横浜と東京で数日を過ごし、その間、日本に詳しいスワミ・ギリが東京で下宿探しをした。学校への入学手続きが済むまでの約一か月のあいだ、学生たちは側近とともに東京で過ごした。赤坂の霊南坂町に一軒家を借り、100円の月給で日本語教師を一人雇った。留学生はチャンドラ・シャムシェル首相の手紙をもって、東京にある英国公使館の英国公使に会いに行った。ネパールの首相の要請にしたがって、英国公使は1902年6月21日に外務大臣小村寿太郎にあてて、留学生が学校や大学に入ることを許可するよう要請する手紙を出した8この手紙のなかで、英国公使は留学生のことを「ネパール国の学生」と表現している。外務大臣はこの手紙を文部大臣に渡し、文部省の推薦にしたがって、8人の学生は3つの国立学校、すなわち東京帝国大学(現在の東京大学工学部)、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)、そして農科大学(現在の東京大学農学部)に入学した。

東洋移民K.K.、そして富士貿易合資会社の社長が借家探しに力添えをし、それぞれの学校への入学の際には保証人となった。

8人は東京の4か所に家を借り、17人の側近も彼らと同居した。住所は以下のとおりである。

1.   ジャンガ・ナルシンとデヴ・ナルシン。本郷区東片町137。家賃30円、敷金50円。

2.   バクタ・バハドゥルとバラ・ナルシン。本郷区真砂町22。家賃30円、敷金100円。

3.   ビチャル・マン、ルドゥラ・ラル、ヘム・バハドゥル。浅草区蔵前北富坂町19。家賃20円。

4.   ディープ・ナルシン。豊多摩郡中渋谷村272の農家。家賃10円、敷金なし。

5.   大阪における住所は、北区網島町132。

6.   静岡における住所は、かま市田中鉄工所。

7.   東京の芝浦工業。社長の名前は高橋。

    本郷区の家は学校から約1.8キロ、浅草の家は約3.5キロ、今の駒場にあたる中渋谷村の家は本郷から約10キロのところにあった。郊外にある家の家賃ほど安かった。偶然だが、筆者も学生時代駒場に住んでいた。ディープ・ナルシンが学んだ農科大学は筆者がいた学生寮のすぐ前にあった。1960年代まであたりはまだ静かで、道も舗装されておらず、田舎の風情が残っていた。

    当時にしては高い家賃だが、これは彼らが比較的大きな家に住んでいたからだろう。とはいえ、側近と同居していたため、留学生の月給で十分にやっていけた。



[ Next ]      [ Back to Content Page ]

[ HOME ]
 
 
Copyright (c) 2012: Embassy of Japan in Nepal
法的事項      アクセシビリティについて      プライバシーポリシー